念願の西御門サローネ、初訪問です。
ここは、里見弴さんが39歳の時に自ら設計に携わり建てた家です。
昭和11年、里見さんが49歳で転居した後は、米軍接収やホテルとして使われ、
その後は、石川さんという方が所有して丁寧に住んでいらっしゃって、
毎週月曜日に一般公開されています。
※ また、西御門サローネとして催しに利用されています。
一般公開は週一回だけなので なかなか都合がつかず、いつも外から眺めるだけでした。
そんな折 サイトで『秋の鎌倉古美術展』として土日に公開されると知り、やって来ました。
いつもは門が閉まっているんだけど、嬉しい今日は入れる!
旧里見邸は、洋館に和室がついているモダンな建物。
こっちは洋館のバルコニー⤵
そしてこっちは和室 ⤵ 高床式になっています。
玄関脇の小窓が可愛いい、猫の目みたいだ。
内側から見るとこんなでした
玄関ホールは本日、販売コーナーになっています。
ホール横のリビングスペースに骨董品が並んでいますが、スルーしてしまいました。
こちらの階段奥はプライベートスペースで入室不可。
しかし、綺麗にお住まいだなぁ。
昭和元年に建てられたというのだから、、、、86年も経っているんだ。
それって凄いことじゃないですかね、はっ はちじゅうろくねんですってよ! ( 2012年現在 )
里見弴さんは言わずと知れた昭和の文豪。
長兄は有島武郎で作家、次兄は有島生馬で画家。
兄弟が有島姓なのに、里見さんひとりだけ山内姓です。( ※ 本名は山内英夫 )
彼は生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したために、
出生直後に養子となり山内姓になりました。
でも育ったのは長兄、次兄と同じ有島家でした。
お父さんの有島武という人は、鹿児島県出身の官僚で実業家でもあった。
明治維新後に上京し大蔵官僚としてヨーロッパに派遣されたりのエリートで、
退官後は実業界入りして財を成し、千代田区六番町に広大な邸宅を構えるまでになった人です。
父親も金持だけど、里見弴さんは父方と別に 母方からも遺産を得たので、お金に困らないで育ちました。
兄弟共々 学習院に通い、そこで知り合った長兄の友人 ( 志賀直哉とか武者小路実篤 ) らが作った雑誌『白樺』に参加。作家としてデビューします。
あっ、すみません。
里見弴さんのことを語り出すと長くなりますので、今日は我慢してこのくらいにします。
ああ、もっと語りたい!
とにかく何をいいたいかっていうと、筋金入りのボンボンなのです。
山内家からの遺産もさっさと使い果たしてしまいましたが、
当時の文豪は「円本ブーム」で経済的に潤っていて、里見さんもその恩恵に預かった。
39歳でこんな家を建てられたのも、円本のお蔭だと思います。
しかし、この頃から愛人さんもいて、二つの家計をみなきゃいけなかったから大変だったでしょう。
志賀直哉や武者小路実篤などが純文学路線を貫きましたが、
里見弴が晩年 大衆文学に傾いてしまったのは、そういった私生活の経済的な理由と、
交友関係にあるように私は推察します。
あっ、すみません、また続けてしまった。
今日は、西御門サローネの話でした。
こちらは階段をあがって左にある通路で、この先が和室。
ご婦人が見ているのは本日の催事品の骨董のようです。
ずらりと並んだ骨董よりも、家の方に興味がある。
和室のガラス戸の下は鎧板になっていました。すごい!
眺めもいいです。
角部屋で、入ってきた玄関口と向こう側に山が見えます。
茅葺を美しく保存するのは大変でしょうなぁ。
和室から洋館をみた写真⤵
里見弴さんは、39歳から49歳までの10年を、西御門のこの家で過ごしました。
この和室が恐らくは里見さんの書斎だったのではないかな。←勝手に想像
「今年竹」「多情仏心」「安城家の兄弟」「山ノ手暮色」「満支一見」などは、
この景色を見ながらここで誕生したのだと思うと、感慨深い。
里見弴さんはこの後、鎌倉駅にもっと近い小町に居を移します。
小町の庭の写真は雑誌にも掲載されていますが、その家は残っていません。
西御門の旧里見邸をこうして保存して住んでくださるのは、いち里見ファンとして有難い。
訪問できて感動しました。
参考文献
もしご興味があったら当ブログの記事⤵
里見弴さんが子どもの頃住んでいた赤坂のことを題材にした「夜櫻」という短編の話です。