先週に続き、鎌倉宮に来ました。
先週は間違えたバスに乗って着いちゃっただけでしたが、
今回は来るべきしてやって参りました。
事前にルート調べをしたサイトに
「バス停から赤い橋を渡ると鎌倉宮」とありましたが、ないぞ、、、赤い橋。
この茶色い橋が、昔は赤かったのだと思います。
「山あじさい散歩道」
見頃 六月頃 ( 花の意のまま ) とは。。。おほほ。(笑)
見事な
自然石をくり抜いた水盤に、龍口からチロチロ流れ落ちる水が涼しげ。
美しい作法で手水を使う方を見かけました。
70代のその男性は、いかにも手慣れた様子でお清めをしていらっしゃます。
流れるようなその動き、その作法にしばし見とれました。
拝礼の角度も神職のごと。
「山あじさい散歩道」の看板に魅せられ、拝観料を収めます。
拝殿に、おや? 大きな獅子頭。
護良親王が戦の時に、兜の中に獅子頭を忍ばせお守りにしたのが所以なんだそうです。
順路は、本殿脇を抜けて、裏へと続いています。
本殿の後ろに人だかりが…。
この場所の説明会が行われてるみたい。
団体さんに交じり、チャッカリ拝聴。
ここにある土牢は、護良親王が幽閉された場所なんだそうです。
立て看板にも、
「護良親王御土牢 二段岩窟
建武元年十一月より翌二年七月二十三日まで約九か月の間ここに御幽居し給ふ」
とある。深さは約4メートル、広さは八畳ほどとのこと。
でもこれは復元されたもの。
可哀想になあ。。。って思って見てるんだろうか。
イワタバコが咲いていました。
団体さんと一緒に次の場所に移動します。
次なる場所は、護良親王が暗殺され、掻かれた首が捨てられたという『御構廟』。
先ほどから団体さんに説明をされているのは、鎌倉宮の神主さんでした。
鎌倉宮の施設の説明に加え、こんな話もされてます。
以来テレビなど取材は全部お断りしています。
何だか難しい、、、大人の事情…。
そんな 鎌倉宮 では、宣伝をマスコミに頼らずに、独自の企画で盛り立てているようで、
そのひとつが拝観説明だったり、お琴の教室なども実施しているようです。
そのほか境内には「かわらけ」があったり、
「身代りさま」というのもありました。
撫で身代りの由来
村上義光公は、護良親王の忠臣にして元弘三年 ( 1333年 ) 正月 吉野城落城の折、
最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。
そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき 自分が着用して「われこそは大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて、腹を一文字に搔き切り壮絶な最期をとげ、その間に親王は、南に向かって落ちのびました。
このように身代わりとなられた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ
「撫で身代り」として入魂致しました。
その身代り像がこちら
足とか膝とかテカテカになっているでしょう?
痛いところや悪いところを撫でると、身代りになってくれるんだそうな。
でもちょっと複雑。
義光さんは、護良親王だから身代りになったんでしょ?
その義光さんに、私たちの痛いところまで身代りさせるのって、なんだか凄く申し訳けない気がする。
だってさぁ~、吉野で自害した義光公を、鎌倉に連れてきて、身代りさせるってどうなの (;^_^A
「大変でしたね。どうか安らかにお休みください」
順路の最後の所にある宝物殿は、
明治天皇御幸 (明治6年4月16日) の際の行在所として明治4年に建設されたそうです。
現在の建物はその一部分で、護良親王の彫像や、乃木将軍や東郷さんの書まで飾られている。
写真はNGとのことなので、遠くからパチリ。
昨秋訪れた葛原岡神社も、この鎌倉宮も、明治天皇の勅命により建立されたものです。
葛原岡神社の公式ホームページの『ご由緒』にも、
「明治天皇が俊基の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ~(中略)~創建~」
とありましたが、なぜ明治天皇がそこまで思い入れをされたのか、ずっと不思議に思っていました。
その謎が、『鎌倉タイム』の記事で解けました。
明治維新で、武家から政権を奪還した時 在位されたのが明治天皇。
そのため、鎌倉幕府の倒幕に思いが重なっていたようなんです。
(原文は、以下の通り)
建武の新政と同じように、明治維新によって武家政権(江戸幕府)から政権を取り戻した明治天皇は、建武中興(建武の新政)を大変意義深いものとしてとらえ、南朝の皇族や武将を祭神とする15の神社を創建され建武中興十五社と呼ばれます。鎌倉宮の他、楠木正成を祀る神戸の湊川神社、後醍醐天皇を祀る奈良の吉野神宮などがあります。鎌倉にはこの他、倒幕に尽力した日野俊基を祀る源氏山の葛原岡神社などがあります。
鎌倉宮