草津の街中を歩く~コンウォール・リー女史について

2日目は、草津の街中を歩きます。

草津は、アップダウンがとても多い街です。だから自転車は見かけない。

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草津を訪れる人が必ず来るのが『湯畑』です。

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湯畑は、今日も観光客で賑わってる。

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でも1つ裏通りに入ると、こんなに静か。

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あんな坂~こんな坂~ 坂ばかり。

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公園を見つけました。

「コンウォール・リー 頌徳公園」と書いてある。

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コンウォール・リー女史? どんな人なんでしょう。

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説明書きがありました

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コンウォール・リー女史は1857年英国カンタベリーの貴族の一人娘として生まれ、最高学府に学び、熱心なキリスト信者として成長した。両親の死後、憧れの美しい国 日本でキリスト教伝導に生涯を捧げようと、51歳のとき単身来日、日本聖公会の宣教師として東京、横浜方面で伝導にあたっていた。

 

当時、草津温泉湯川添いにあった湯ノ沢部落に、病気を温泉で治そうと全国から多数のハンセン氏病患者が集まっていたが、彼らの生活は荒れ果て苦悩に包まれていた。彼らはリー女史に救いを求めた。

 

リー女史は、この哀れな病人たちに生涯を捧げようと、1916年 (大正5) 4月、湯之沢に自ら住所を移して、まず聖バルナバ医院を建て、男子ホーム、女子ホーム、家族ホーム、児童ホーム、学校、幼稚園など次々に建てて、病人に医療を施し、生活を保障し、教育を行った。すさんだ病人たちもリー女史を「母さん」と慕うようになり、洗礼をうけた者千人を超えたという。リー女史は両親が残した膨大な遺産のすべてを、病人たちのために使い果たし、1941年 (昭和16) 84歳の生涯を終えられた。

リー女史の遺骨は草津聖バルナバ教会墓地に病人たちの墓に囲まれて眠っている。

 

尚この頌徳公園は、リー女史が病人たちのために作り、のちに町に寄付されたものである。

『頌徳公園 コンウォール・リー女史顕彰碑』(下写真)より


草津は、ハンセン病と深い繋がりを持つ場所だとは聞いてたけれど、リー女史のことは知らなかった。

 


この教会が、記念館らしい

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入口で思案していたら、声をかけられた。神父様かな。

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誘われるまま入館。

 


入口の正面に、リー女史と日本人の子どもたちが写った写真が大きなパネルとして飾られている。

これが《リーかあさま》と慕われる由縁の1枚なのか。

内部は15畳ほどのスペースで、沢山の展示物が並んでる。情報満載!

右端からパネルを読もうと思ったら、先ほどの神父(?)様が つきっきりで説明をしてくださる w

何せ入館者は私1名だもので・・

 

パネルを読むのをあきらめ (笑)、神父様(?)の話を傾聴。

パネルには書けないような説明の数々でした。

こちらの説明にも的確に答えて下さって、ハンセン病のこと、この地域のことが分かってくる。しかし、ハンセン病のことや草津の歴史は、とても1日やそこらでは理解できるわけもない。閉館時間は とうに過ぎている。また改めて伺うことにして、今日のところは失礼することにした。

※ 写真撮影もOKだったと後から分かったので、今度はもっと早い時間に伺うことにします。

 

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リーかあさま記念館の向いにある聖マーガレット館は、ハンセン病者が産んだ子供たちの為の施設。

現在は教会の研修施設として利用されているんだそうです。

ハンセン病者は、子どもが成人するまで面倒を見ることが困難だった。

また社会の差別も強かったので、子どもたちが自立するのは難しかった。

このような病者の子どもたちを救済することを、リー女史は来草時から強く願っていた。

彼女は、この思いを米国聖公会総会の場で訴えた。

リー女史の話を聞いて、愛する娘を亡くしたミセス・ホーという女性が寄付を申し出た。

この寄付によって病者の健康な子どもたちを養育する施設が建設された。

施設はホー夫人の娘の名前をとって「聖マーガレット館」と名付けられた。


1924年 (大正13) 12月に設置された「聖マーガレット館」は、感染を防ぐ目的よりも病者の子どもたちを立派に自立させる目的で作られたものである。
ほとんどの聖バルナバ・ミッションの施設は、湯之沢解散時 (昭和16年) に取り壊されたが、聖マーガレット館は残り、その働きは戦中、そして昭和30年代まで続いた。

『写真集 コンウォール・リー女史物語』p.28より

 

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改めてリー女史の胸像が見たくなり、再度、頌徳公園に行く。

リー女史の胸像は、丘の上から湯之沢部落があった方向 ( 現在は大滝乃湯 ) を向いて建てられている。

胸像のリーかあさまは、今も、湯之沢を見守ってくださっています。