「2014年01月27日、深川を歩く」の最後は、日本橋中洲を辿ってみたいと思う。
まずその前に、小山内薫『大川端』の話をすこし。
小山内薫とは
小山内薫は、明治末から昭和初期まで活躍した劇作家・演出家である。
《47歳》という短い生涯だったが、日本の新劇界の礎を築いた人だ。
歌舞伎俳優の二代目市川左團次と共に自由劇場を結成し、第一回公演はイプセン作、
森鴎外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演した。
左 ) 小山内薫 右 ) ボルクマンに扮した市川左團次
小山内薫は、日本近代演劇の開拓者として後に「新劇の父」と称された。
小説『大川端』は、小山内薫の自伝的小説である。
彼が東大在学中に伊井蓉峰の一座の座付作家をしていた頃の、芸者との恋模様が描かれている。
舞台は日本橋の中州。
かつて中洲には真砂座があり、料亭・茶屋などが並ぶ歓楽街だった。
今回のぶらMarcoは、その『大川端』の舞台-中洲の町を歩いて終わりにしようと思う。
真砂座はもうとっくになくなって、跡地はマンションになっているのだが、
探訪のテーマは《昔の名残を探す》こと。
現在は陸続きになっている中洲が、文字通り「中洲」だった頃の足跡も辿ってみたいと思う。
清洲橋を渡る
正面に見えるマンション群が、日本橋中洲
橋詰に「昭和三年三月 復興局建造」とある。
渡り切って川端を見てみると、ああやっぱり。
なんとショックな光景だ。
護岸工事で高い塀が出来ている。
これですもの、景観がそこなわれた料亭は廃業になるわけだ。
とりあえず、寺社仏閣を探す。
あったあった! 金毘羅さま
記念碑 その一
中洲は江戸時代隅田川の浮洲なりしを
明治初年に埋立て此の地に船玉琴平宮が
祀られ産業振興の神として廣く崇められ
たり。しかし惜しくも対象十二年関東大震
災の爲に鳥有に歸し再建の機運に至らざり
し處湯淺勘次郎氏の夢枕が機縁となり
同志相諮り此の地を卜して四國琴平
宮の御霊を遷座奉祀し廣く繁榮の
守護神として茲に神殿を建立し奉る
昭和二十九年十二月吉日
記念碑 その二
題字 鳩山威一郎書
中洲は特別な歴史を有する。
江戸時代の中洲は須磨明石に勝さる江戸随一の
納涼観月の名所であつた。明和年間に築立され
三股富永町として繁栄したが寛政年間には埋め
戻された。明治十九年、中洲は再び築立されて
旧日本橋区中洲町となる。明治・大正・昭和時
代を通し、大川端の地として小山内薫等多くの
文化人が往来し、その作品の舞台となる。
明治の築立から本年四月で百周年を迎えるに
あたり、ここに記念の碑を建立する。
昭和六十一年八月吉日 町会長小堀章三 文
玉垣に料亭の名がいくつか刻まれている。
中洲 割烹 三田
中洲 割烹 〇〇、、、これは読めない
中洲 割烹 弥生
中洲 割烹 中州
この地にはもう料亭は一軒もなく、跡地は大型マンションになっていた。
料亭 三田についての最後の写真を掲載しているサイトさんがあったので、
リンクを貼らせていただく。
小説『大川端』には、主人公の正雄が出入りした料亭の描写がある。
正雄が恋焦がれたお酌の君太郎と密会する店である。
初めてその料亭「新布袋屋」に行った時のシーンがこちら。
※ 福井さんというのは、小山内薫のパトロンとなる木場の材木商-数井政吉がモデルと思われる
福井 (※) さんは茶屋を出ると、どんどん島の奥の方へ歩いて行く。正雄は怪訝な顔をして、その後からついて行った。
男橋を左に見て、まだ奥の方へ行くと、突き当りに路地がある。路地を入ると直ぐ、右っ側に屋根付きの粋な門があって、曇硝子の丸い軒燈に「新布袋屋」の字が透明に抜いてある。
「君、ここだよ」
福井さんはやんちゃらしく門の中へ飛び込んだ。正雄も真似をするともなく、敷石を二つ三ッ田飛んだ。格子戸を開けると、龍井がもう来ていて、玄関に笑って立っていた。
綺麗に吹き込んだ気持ちの良い家だが、何となく天井が低くて、何処に行っても鼻がつかえそうである。下駄を脱ぐと、女中があわててそれを下駄箱に入れた。正雄は不思議に思った。
福井さんに案内されて、正雄は梯子段を上がった。通された二階は次の間つきの十畳くらいな座敷である。
天井は杉の薄い板で、それに胡粉と青とで夕顔の絵が描いてある。
窓の下は直ぐと大川で、障子を明けると、真夏の日に眩く水と、眠りながら流れているような舟が幾艘か見えた。向こう河岸には白い蔵が眼を射るように並んでいた。
座敷の真ん中には桑のちゃぶ台が出ていた。ちゃぶ台の三方には麻の夏蒲団が敷かれて座蒲団の側に脇息がひとつづつ置いてあった。
「君、誰か呼びたいのがあるんなら、呼び給え」
福井さんは正雄に向ってこう言った。
春陽堂『大川端』p.16より
正雄はこの日から「新布袋屋」に入り浸るようになる。
入り浸るというより住み着くといった方がいいような具合で、
毎日そこで台本を書いたり勉強をしたりして、夜になると君太郎を呼んだ。
「新布袋屋」はどこだろう
「男橋を左に見て、そのきあたりの路地を入ってすぐの右」とあるから、
中州の「三股」の奥、下地図の赤矢印と思われる。
明治四十年一月調査東京市日本橋全図参照⤵
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=004922746
実際に行ってみたら、中洲の突き当りは大きなマンションになっていた。
たぶんここら辺りが「新布袋屋」かな。
初めて福井さんに連れてこられたのは、二階の夕顔の間だったが、
正雄が連泊 ( 住み着いた ) した部屋は、一階の下座敷だった。
瑠璃色に紫陽花が咲いている小さな庭の飛び石を渡ると船着きの桟橋に出られる座敷である。
この座敷の実がの隅にはほんの畳一畳敷くらいの廊下ともつかず縁側ともつかない半端な板の間があった。そこに手すりがあって、手すりの下の石崖には大川の水が潮を上げて高くなったり低くなったりした。
~中略~
色々な船が水の上を行き来した。一銭蒸気は日に何回となく向こう河岸に近い方を登ったり下ったりした。石油発動機で動く船には木場の奥の郡部まで行く乗り合いと、中州河岸から出て深川の工場へ通う東京印刷会社の持ち船があった。ダルマ形とかいう大きな黒いたらいのような船も通った。
~中略~
石崖のすぐ下を通る船の船頭は、よく手すりに出ている正雄と君太郎の姿を見て、わけのわからない言葉で冷やかすようなことを言った。
ボートを漕いで通る学生たちに「よいしよう」などとはやされたことも度々である。ある時、ボートに乗った学生たちが、流れに任せて川を下りながら、正雄と君太郎の姿を遠くから見て、「今におれ達も行けるようになるぞう。」と一斉に声を揃えてどなったことがある。
この時は流石に落ち着いた君太郎も顔をくずして笑った。春陽堂『大川端』p.52より
マンションの裏側に回ってみた。
裏手 ( 三又の突き当り ) は、公園になっている。
階段を登ると、
大川が見えた。
ああ、なんと。
遊歩道とマンションとの間には、護岸の高い塀が。
一階部分の窓より、はるかに高い塀だ。
現在の中州は、船頭からも、学生たちからも見えない味気ない場所になっていた。
日本橋中洲の変貌
1.「中州」という地は、昔は葦の生える場所だった。
こっちの地図の方が見やすいかな
もともと中州は隅田川の浅瀬で、葦の繁る湿地帯のような場所だった。
2.明治期には埋め立てられ、中州が《住める場所》になった。
※ 江戸時代後期にも一旦埋め立てられたことはあった。
絵図は北から見た図。左手前が大川の上流で、本土手前 (浜町) から中州町を見たもの⤵
明治になると中州は、真砂座を中心に茶屋や料亭が並ぶ歓楽街になります。
出島になっているのが歓楽街として丁度よい環境だったのかも知れない。
新選東京図会より 明治34年頃の中州 西南方向から中州を見た絵図。
本土手前に川口橋、そこから中州にかかるのが女橋。
中央あたりに真砂座があり、大川の向こう岸にモクモクと煙があがっている煙突が、
『大川端』にも描写のあるセメント工場。
これは、東から本土 ( 浜町 ) 方向を撮った写真。
中央が川口橋で、右に架かるのが女橋と思われる。
中央区京橋図書館より
3.箱崎川が埋め立てられ、その上に首都高速道路が建設された。
昭和46年になると、浜町と中州の間にあった箱崎川が埋め立てられ、
日本橋中洲は、箱崎町や浜町と地続きになった。
箱崎川があった場所には、首都高速6号向島線が作られた。
黄色い道路が6号向島線⤵
奥の薄朱色の道路が首都高速で、下の道が男橋が架かっていたところ。
首都高の下はあやめ公園という公園になっている。
おっ、ありました、
名残があった!
ここにも
あやめ公園と宅地の境にあるのは、昔の護岸跡。
そのまま残されているなんて素晴らしい。
これだからぶら散歩はやめられない! 感動しました。
参考にさせていただいたサイトさま