歩け歩けのツァーに間に合わなかったのをいいことに、グズグズし始めました。
どうせ来たんだもの、勝手気ままにひとりで見て周る。
鎌倉はこんな狭い道がバス通りだったりする。
あのバス、すれ違うの大変そうだ。
天園ハイキングコースへの登り口は、左 ( 永福寺跡方面 ) と右 ( 覚園寺方面 ) があります。
今日は覚園寺経由で、右から登ります。
物件好きなんです。
うぉ~、二度と出ないぞ、こんな土地。
川端康成が住んでいた家の跡ですって。
「川端康成が住んでいた」といっても仮寓で、
家の持主は、蒲原有明さんという詩人でした。
碑には、右のようなことが書いてあります。
蒲原有明は、明治9 (1876) 年3月15日、東京麹町に生れた。本名は隼雄 ( はやお ) 。ペンネームの有明は、父忠蔵の出身地 佐賀県に因んだものである。
明治27年、国民英学会を卒業する頃には詩作を始めている。
初め小説に手を染めたが、島崎藤村を識り詩作に専念。
明治35年1月、初期新体詩風の第一詩集「草わかば」を発表する。次いで翌年、第二詩集「独絃哀歌」で象徴詩への独自な展開をみせ、明治38年 象徴詩として成熟度の高い「春鳥集」を出版した。
明治41年、第四詩集「有明集」で詩風の完成を示し、わが国近代象徴詩の第一人者と呼ばれるに至った。
ここは、大正8年5月に東京中野から鎌倉雪ノ下に移住した有明が、翌年3月に新居を構えた所である。
大正12年9月1日の関東大震災で被災し、大破した家屋の修理はしたが、12月に静岡県鷹匠町に移住する。
昭和20年6月には戦災に遭い、9月にふたたびこの地に戻った。
この家には、昭和12年から川端康成が有明の持ち家と知らずに住んでいたが、快く迎え入れ、翌年月に長谷に転居した。
昭和23年7月、日本芸術院会員となる。
昭和27年 (1952) 年2月3日死去。77歳であった。
この碑は、昭和57年、有明没後30年を記念し、野田宇太郎 ( 詩人。明治41年~昭和59年 ) を中心に「文学碑」謹碑の計画がなされたが実現されず、この度、孫である蒲原一正により建立された。
平成22年2月3日
川端康成が蒲原邸を借りていたのは昭和12 (1937) 年5月から昭和20 (1945) の8年間。
その間、軽井沢に2軒の別荘を購入していますが、
『雪国』は昭和12年6月に刊行しているので、この家で完成させたものと思われます。
《川端康成》といえば鎌倉在住文人というイメージがあります。
氏が初めて鎌倉に移り住んだのが昭和10年 (1935) 12月、鎌倉 浄明寺宅間ケ谷で、
そこから転居したのが、この蒲原有明邸 ( 二階堂325番地 ) でした。
因みに。
私の敬愛する作家-島木健作が亡くなったのが1945年8月17日、終戦の2日後です。
臨終には家族の他、小林秀雄、高見順、中山義秀、久米正雄、川端康成が立ち会いました。
島木さんの遺体は、病院から自宅まで、文士たちが担架で運んだそうです。
先導役は川端康成。彼は提灯を持って歩いたとのこと。
自宅 (二階堂) から、鎌倉養生園 (雪ノ下) から、島木の家 ( 扇ケ谷 ) まで、この日は片道2.5㎞歩いたのです。
話を元に戻しましょう。
碑の下には蒲原有明の小説『夢は呼び交す』の一部が記されています。
詩はとんと理解できないけれど、これは自伝で普通の文体なので読みやすい。
庭木のうちでは
槙 がいちばん大木であり、丈 たけも高い。朝日が今その梢 を照し出している。楓 かえではうっとうしいくらい繁って来たが、それでもけさは青葉の色が滴 るように見える。縁先 の左横手に寄って柘榴 が臥 ている。この柘榴は槙にも劣らぬ老木である。駱駝 の背の瘤 のような枝葉の集団が幾つかもくもくと盛りあがっている。そして太い幹が地を這 って遠呂智 のうねりを思わせるが、一間 ばかり這って、急に頭を斜に上の方へと起 ちあがらせている。『夢は呼び交す』「朝目よし」岩波文庫から
全文は、青空文庫で読むことが出来ました。⤵
蒲原有明、俄然興味がわきました。
といっても詩はわからないから、エッセーや小説を読んでみようかな。
左手にお蕎麦屋さんが見えてきた。
蕎麦か、いいな、さすがにお腹が空いてきたな。
でも今日はお弁当を持っているので我慢。
籐のバッグをポスト代りにするなんて、オシャレじゃないですか。
茶色・白・ラクダ色って、大好きな組み合わせなの。
ここが、天園ハイキングコースの登り口。
でも覚園寺に寄りたいので、このまま前進します。
「ネコ 飛び出し 注意!」ですって ( ´艸`)
カリカリ持ってきたし、
しばらくウロウロしてみましたが、にゃんこには会えませんでした。
Openしたてのレストラン、、、おなか、、、空いた。
素敵な家だなあ。
お家もいいけど、あの竹穂垣すごい!
覚園寺に到着
覚園寺
宗派 真言宗
泉湧寺 派山号寺号
鷲峰山 覚園寺建立 永仁4年 ( 1296 )
開山
智海心慧 律師開基 北条貞時
健保6年 ( 1218 ) 、二代執権・北条義時が、
戌神将 のお告げにより建てた薬師堂が前身です。その後 九代執権・北条貞時が、元寇が再び起こらぬことを願い、戒律を中心として四宗 ( 真言・天台・禅・浄土 ) 兼学道場に改めました。
本堂の薬師三尊坐像と十二神将像は鎌倉屈指の尊像です。奥深い境内は静寂としていて、古都鎌倉の面影をよく残しています。
地蔵堂の黒地蔵尊の縁日 ( 8月10日 ) には、多くの参拝者が訪れます。
綺麗な山吹!
いや、もう6月だから山吹じゃないか。キンシバイ ( 金糸梅 ) かな?
山門をくぐると、
正面に愛染堂があります。ここまでは無料エリア。
※ 境内の奥へは1時間おきにお寺の方が案内してくださるそうです。
愛染堂
山門の手前に石の層塔がありました。
いちにーさんしー、九重の層塔か立派だなぁ。
覚園寺のツァーは、一時間おきとのこと。
今日は時間が合わないので、またの機会にしましょう。
お寺の門から、さっきお宅が見える。
覚園寺の近くにあった看板
手書きが、いい味出してますわ。
元来た道を戻り、
素敵レストランに後ろ髪をひかれながら別れを告げ、
天園ハイキングコースの登り口まで戻ってきました。
では、登るぞよ!
つづく